J.H.モーガンが設計した山手111番館の写真です。この赤い瓦屋根の可愛らしい邸宅は、港の見える丘公園にあります。
今回は山手111番館に関わった、T.M.ラフィン氏やJ.Eラフィン氏について少し書いてみようかなと思います。
結婚した息子のために建てられた山手111番館
山手111番館は、T.M.ラフィン(トーマス・メルビン・ラフィン)氏が、結婚した息子のJ.E.ラフィン(ジョン・エドワード・ラフィン)氏のために建てた家とされています。
竣工は1926年(大正15年)で、設計は横浜で活躍したJ.H.モーガン氏。スタッコ仕上げの外壁と赤い瓦の屋根、3連アーチが特徴的で、温かみを感じる私邸です。
日本人女性と結婚したT.M.ラフィン氏
T.M.ラフィン氏は、1885年(明治18年)ごろに海軍士官として乗っていた船が修理のために横浜へ立ち寄ることになりました。その時に運命が大きく変わりました。
船を修理している間にT.M.ラフィン氏は、休暇で羽をのばしに箱根へ行くことにしました。温泉に入り、お酒を飲み、そんなだったんでしょうね?
その箱根で恋に落ちたのです。お相手は日本人の石井ミヨさん。そのまま結婚へ発展し、T.M.ラフィン氏は日本に骨を埋めることを決意したのです。
その後、二人は横浜で暮らすようになり8人の子供を授かったとされています。仕事面では、1886年(明治19年)日本郵船に入社しています。
退社したのはおそらく1894年(明治27年)で、退社後は会社を設立し、船具や食料などの貿易や船に関わることで財を築いていったようです。
日本を離れたJ.E.ラフィン氏
J.Eラフィン氏は、T.M.ラフィン・ミヨ夫妻の2番目の子供で長男でした。成人してからは、荷揚げや両替など港湾関係の会社を経営したようです。
シベリア生まれのロシア系女性のマリア・イワノワさんと結婚し、この2人のために父が贈った家が山手111番館ということになります。
日本で成功したラフィン家ですが、太平洋戦争が始まるころから暗い影が落ち始めました。J.Eラフィン氏1941年(昭和16年)に日本を出国しアメリカへ。
奥さんは戦後の出国になったようですが、カリフォルニアで亡くなり、ご夫妻のお墓もカリフォルニアにあります。
明治大正から昭和初期にかけて外国人の活躍や生活はとても生き生きとしたものですが、戦争で外国人にとって暮らしにくいものになったわけですね
例えばラフィン家の男性は全て離日。抑留された子は交換船でアメリカへ渡り、自殺の疑いがある子供までいるのです。
山手111番館は愛され続けた
戦争によって暗い影をラフィン家にもおとしましたが、山手111番館はJ.Eラフィン氏の後の住人にも愛され続けた住宅でした。
大きな改装もされずに大切に使われ、当時の雰囲気がそのまま残っているんですよ。
山手111番館の写真はこちら
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